つくば市の塾|難関大・医歯薬合格|高校生(中3から可)

開塾の経緯


■小学生の頃から、周りの大人に「なぜ教えてあげないの?」とよく言われてきました。しかし、当時から、「教える」行為によって、教えられた人が自分で考えるチャンスを失うことになるので、かえって迷惑をかけるだけだと思っていました。
もちろん、当時、小学生だった私には、理由を言葉で表現することはできませんでしたが、こうした「教える」ことの害に気づいていました。
授業や本などから知識を得たとき、アタマの中が「?」だらけになることもあります。そこから初めて「なんで?」「どういうこと?」と自分で考え始めることができるのです。せっかく考えるチャンスが生まれたのに、そこですぐに別の言い方や、かみ砕いた表現で説明を加えると、その場では理解に至ったとしても、考えることが習慣とならず、次から同じような場面で自分で考えることをせず、誰かに聞こうとする人になってしまいます。それでは実力は伸びないし、勉強の楽しみを味わうことができません。もったいないことです。
「なぜ教えないの」と言われるたびに、こうしたことを考えていました。

■しかし、高校生になると、科目数が増え難易度が高くなり、一度つまづくと、その後の学習ができなくなり大学受験に間に合わなくなるとわかりました。当時、水泳部に入っていた私は、自分のアタマの中の「?」を解消するのに精一杯で、教えてあげたくても時間がなくて無理だったり、体が疲れすぎてできなかったりすることが多くありました。中学卒業までは同じくらいの学力レベルだった人たちが、高校で大きく差が開いていく現実に無力感も感じていました。当然に志望校はバラバラになり京大に入ったのは数人となってしまいました。出身大学がどこか、というだけでその後の人生が決まるわけではありませんが、有利不利の差は大きいです。仲の良かった友人にでさえ、ほとんど協力してあげられないまま高校生活を終えたことに痛みを感じひきずったままでいます。

■ただ、中学、高校ともに、魅力を感じる教師が少なかったことが原因で、教員にはならないと決めていました。ジャージでサンダルのだらしない格好で授業をしている教師が、生徒の服装に過度に厳しくあたるのを見て、教師を心の底から軽蔑していましたし、授業に何の工夫もなくひたすら何年も同じ内容を黒板に書いて生徒に書き取らせる教師には、生きていて何が楽しいのだろうと同情もしていました。教える以上は、教える側も勉強し続けていないと生徒に学ぶ楽しさは伝わらないと感じていましたし、それは今でも信念として持っています。過去に勉強したことがあるというだけの化石の教師がガンバレと言っても反発しか覚えませんが、今も勉強を続けて時間をやりくりしている教師の言葉には生徒を動かす力があります。知識を伝え理解に至らせる力があります。自己管理をしろと言いながらだらしない体型の講師の言葉は生徒には響きません。安定にどっぷり浸かりきって努力を放棄したような教師を多く見てしまったために、教員は選択肢から消えました。(その後、塾の講師の世界も似たような状況の場合があることを知り愕然としました。)
そこで大学院(修士課程)のあとは製薬・食品企業に研究員として勤め、その後、企画や知財も経験させてもらって、年の離れた人たちに教える(伝える)体験を蓄積するとともに、教えるための準備に大変な労力がかかることも多く経験させてもらえました。

■その後、妻の勤務先の合併に伴いイクメン・専業主夫となることを選択したため、その後の人生が大きく変わりました。敷かれたレールから外れてすべて自分でコントロールすることになったわけです。そこで、理系に偏っていた私は法律や簿記についても勉強をし、縁あってある予備校で行政書士や日商簿記の講義をしたり、職業教育訓練としてのマイクロソフトの資格であるMOSの講義をしたりする経験をしました。いずれも必死で取り組み大変な日々でしたが、やっていてとても楽しく、生徒の理解がわたしの喜びとなりました。
職業教育訓練では生徒は当然に大人ばかりでしたので、講師である私にとても優しく、終了時にはあたたかな演出や食事会までしてくれて、泣きそうになるくらいに感動しました。この経験をすることができて、本当に良かったです。もらった寄せ書きは宝物として机の前に飾り、今でもときどき読み返して力をもらっています。

■こうした講師としての奮闘中に、何年も忘れていた、「なぜ教えてあげないの?」という言葉がよみがえり、はっとしました。
「教える」ことの影響として、相手のことばかり考えていましたが、「教える」ことで自分自身にもとても大きな影響があり、全力で教えれば教えるほどに、相手とともに自分も幸せになっていくことがはっきりわかりました。
小学生の頃は、教師が教えたことをかみ砕き具体的な作業として伝えて実行してもらうこと程度にしか思っていなかったのです。しかし、内容を自分で作り直して提供すれば、相手の考えるチャンスも奪わず、ともに考えることができたはずでした。「教える」ことの奥深さに気づくとともに、アタマの中でリフレインする「なぜ教えてあげないの?」が自分の使命につながっているのだろうと感じ始めました。

■そこで、もう一度小学生の頃からやり直してみたくなり、小中学生が主な対象の学習塾の講師に転身しました。2社経験しましたが、いずれも生徒に受け入れてもらうことができ、楽しい授業を展開していくことができました。その過程でいろんな生徒や保護者に出会いましたが、一人一人、私にとってとても大切な人であり、生徒であってくれたこと、相談等をしてくれたことに感謝しています。おかげで人のことがより深くわかるようになり、他では得がたい経験となりました。こうした経験は、学生時代の学部・修士時代の6年間の家庭教師・塾講師のアルバイトでは得られなかったものです。

■2社目で3年が経過しようとする頃に、ふと、中学での友人のことが思い出されてきました。彼は高校で数学や物理の授業について行けなくなり理系志望をあきらめざるを得なくなったのですが、高校2年や3年のときにわたしが彼に教えてあげる時間的・体力的な余裕はさすがになく、なんとかしてあげたかった気持ちだけが残っています。
そこで、彼にではなく、高校生に対して、当時の埋め合わせができることがないかと、講師として勤めていた塾にきていた高校生の理解度をみてみました。すると、予想以上に理解度が低く、高校の授業についていけず苦労していることがわかりました。高校生たちは中学生のときには優秀で学区内の最難関の県立高校に合格した生徒であるにもかかわらず、低空飛行を続け墜落しかけている生徒も決して少なくはありませんでした。そのときから、わたしに何ができるのかを考え始めました。

■生徒の1人で、他の予備校にも通っていた高3の受験生が、その予備校での小さなモニタでの録画講義で理解できずに困っていました。有名な講師の授業であっても、録画で、しかも小さなモニタで板書もよく見えないような授業では、理解が進むことを期待する方がおかしいくらいです。経費を考慮すればそういうことになるのでしょうが、そういう現実を見せられて、これはもう、自分で高校生専門の塾を作るしかないと、自然に思えてきました。授業はやはりライブでのやりとりが重要だと思っています。生徒の顔を見ながら授業をすることで、生徒が理解できたのかどうかがわかり、不十分であればその場で追加の説明や演習を取り入れることができるのです。そうした経験を塾講師として重ねてきたので、わたしに何かできることがあるはずだとの確信があります。実際にうまくいくかどうかについて不安がないわけではありませんが、高校生の役に立つこと、高校生が伸びる手助けとなることに向け、全力で取り組むことが、今や生きる目的と言えるほどに思いが強くなってきました。
塾として存在し続けるためには、当然に経営を考えざるを得ません。しかし、当時講師として在籍していた塾が、経営を気にするあまりに生徒を金儲けの対象として扱っていることに激しい抵抗感・違和感を覚えました。大学受験の予備校が、テーマを細分化して1つ1つ購入させる商売のやり方にも、生徒の親の視点で憤りに近い感覚があります。
私は迷うことなく、自分ですべてコントロールできる立場を選択しました。経済的な安定がなくなり、すべてのリスクを自分だけで負うことになりますが、その反面、自分の思いをストレートに反映させることができます。冷静に見ればただのバカかも知れません。いったん無職となり、高校生を主な対象とした家庭教師を始め、開業の準備に本腰を入れました。

■幸いにも多くの生徒に恵まれ、家庭教師として高校生をどう導いていくかの貴重な実践の場を与えていただいています。その経験も併せて塾の構想を練り上げました。私にしかできない塾、私が思うところの、高校生に本当に役に立つ塾を提供できると確信しています。ただ、授業は生徒との共同作業です。本気で勉強したい、伸びたい、あきらめたくない生徒とともに、全力で過ごす日々を送って良い授業を積み重ね、生徒の人生にプラスをプレゼントしたいです。能力面でまだまだ足りないことだらけなので、日々努力を重ねていきます。

■開塾は2018年7月22日です。

■初年度は、年度の途中のため、募集するのは現高校1年生、2年生のみとしました。



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